備忘録あるいはボトルメール

暇なときに書きます。暇なときに読んでね。

出席番号が高めの奴は、日付と関連して指名されることがないからズルい。

「教科書のここを音読してもらう。今日は1月28日だから、出席番号28」

私の経験上、学校ではみんな間違えたり目立つのを恐れ、挙手をすることがなかった。だから、先生はランダムに生徒を選び、教科書を読ませたり、答えを書かせたり、言わせたりする。先生が生徒を選ぶとき、生徒はみんな自分に役が回ってこないよう息をひそめる。指名された生徒が生贄にされ、他の者は安堵する。

そんな中で育ったからか、私は人前に立つのが嫌いだ。夏休みの自由研究を発表するときだって、合唱コンクールで歌声を響かせるのだって、顔を赤くし震えながらやったものだ。

大人になって自由を得ると案外壇上に立たされることは少ない。最低限の作業をしていれば目立つこともない。とても居心地がいいのだけれど、反面自己表現の機会は減ったと思う。

こうやって文章を打ち込んでいることからも分かることだが、私は自己表現が嫌いなわけではない。ただ、失敗するのを恐れたり、自分の中に発表するほどの価値がないと考えていたりするうちに眠くなって忘れていく。そうやって眠気にもたれながら怠惰に憶病に生きている。

最近になって気づいたが、私には世界にとって特別な存在になりたいという欲があるらしい。であれば、少しでもその努力をすべきだ。多くの人間の記憶に残り、私という存在を知らしめたい。しかし、他人の印象に残るのは難しいだろう。
いつだったかテレビで芸人が「名前だけでも覚えて帰ってください」と言っていた。とても分かりやすいお願い。しかし私の記憶にあるのはその挨拶だけで、ネタの内容も顔も名前も何も覚えていない。私が人の名前を覚えられないというのもあるが、やはりただ覚えてくれというだけでは人の記憶に残りにくいだろう。テレビに出られるくらいの芸人でそれなのだから、私には難しいだろう。

もしかすると、私は先生に当てられたいのかもしれない。こうやってただ自分の場所に座っているだけで、注目される機会が回ってきて、赤面しながら当たり前のつまらないことを言って、それだけでなにかやり遂げたような……

受け身で生きているのに、いつか突然すべてが上手くいって自分がこの世界にとって特別な存在になれるんじゃないかと思ってしまうのは、もしかすると学校での経験のせいなのかもしれない。

少しは能動的に自己表現をしないとなと思うので、最後に挨拶を。

これは本来最初に言うべき文言だが、

「名前だけでも覚えて帰ってください」