髪を切る人
髪を切る人はおしゃべりでおしゃれだ。理容師、理髪師、床屋、どう呼んでいいか今でも分かっていないが、私は彼らのことが好きだ。
私は他人と話すのが苦手だ。誰に何を話したのか正確に記憶していないし、嘘をよくつくからボロを出したくない。そんな私がなぜ彼らを好きになれたか。それはいわゆる単純接触効果というやつのおかげだろう。
私にはいつも通っていた美容院がある。記憶は曖昧だが、小学生か中学生のころから通っている。おしゃれに気を使う人間ではないが、悪目立ちするのは嫌だ。
とはいえ、半ば強制的に話しかけられる美容院と言う空間がそんなに好きではなく、行くのにいちいち勇気を出していかなければならなかった。
故に、私が通うのは3ヶ月に1度ほど。いつもの人に短めに切ってもらっていた。
話はそれるが、「美容院」という言葉にあなたはどんな印象を受けるだろう。私は単に「髪を切る場所」くらいの意味合いでしかないと思っていたのだけれど、調べてみると「床屋よりおしゃれな印象」とか「女性的な印象」とかがあるらしい。
高校生のとき、クラスの一軍グループの人間との会話で、ふと「美容院に行っている」と言ったら、ひどく意外な顔をされたことがある。これ、とても失礼だと思うのだけれど。
閑話休題。床屋に行くのは勇気がいるが、髪を切ってもらうのは気分がいい。ちょっとだけ体重が軽くなった気もするし、目の前が明るくなったようにも感じる。
こういう「やる前は嫌な気分になるがやってみると案外楽しい」みたいなことはよくある。以前は髪を切ってもらう間、置いてある雑誌に興味があるように熱心なふりをしていたが、髪を切る人との会話も、今ではそこまで嫌いじゃない。
もちろん、最初から会話が好きなわけではなかった。町ではなかなか見ない服を着こなす彼は、なんとなく別の世界の人間であるかのようだったから、どう話を展開していけばいいかわからなかった。
ただ、話してみると彼は案外物を知らなかった。いろんな人と話すから多くの流行りや豆知識を蓄えているのだろうと思っていたが、どうやらそうではないようだった。
もしかしたらそれは、理想の聞き役として振舞った結果なのかもしれないが、思ったより話しやすいというのが今の私が持っている印象だ。
いつも髪を切ってくれる人に、ネットにいくらでも転がっている豆知識を披露すると、
「面白い話をするね」
とお世辞を言ってくれる。
それにまんまと乗せられて、私には次に来るまでの3ヶ月のうちにネタを考える習慣がついていた。
半年ほど前、いつも私の髪を切ってくれていた人が美容院をやめた。正確には他の店に行ったらしい。
聞くところによると、私が行っていた店はかなり混雑していたらしく、忙しい状態が続いたため、もう少し規模を小さくして細々とやっていきたいそうで、数人の理容師が他の店に行ったらしい。
悪い理由でなくて安心したが、とはいえ、私は迷った。
ネタを話さないまま彼はどこかへ行ってしまった。
店の場所を聞き出すこともできたが、そこまでの熱意は私にはなかった。
なんというか、急な引っ越しでクラスメイトが一人消えたような感覚だ。
それから今になるまで、私は髪を切っていない。別に伸ばしたくなったわけではない。
もし強引に理由をつけるなら、話を聞かずに去った彼へのあてつけだ。
伸びた髪のせいで、いつもより多くの勇気を振り絞らねば美容院に行けなくなった。
髪が伸びるにつれ、美容院との距離が遠くなるのを感じる。
目の端に、伸びた髪が映る。
でも私は、もうしばらく髪を伸ばそうと思う。
よく噛んで食べよう。
以下は自分語りである。きっとあなたの糧になる話ではないため、時間を潰したい場合を除いて、読むことをおすすめしない。
私は数年前、ワールドトリガーを全巻(当時の最新刊まで)読んだ。
友人のY君がワールドトリガーの熱狂的なファンで、
「全巻貸してやるから読め」
と全巻セットを袋に入れて渡してくれたからだ。
当時の自分は、趣味もなく暇をしていた。時間はあったので、2日ほどに分けてちゃっちゃと読んでしまった。
今思い返すと、これは大きな過ちであった。今回はそういう話を書こうと思う。
時間はめちゃくちゃ遡り、私が小学校低学年の頃。私は給食を食べるのが遅かった。
噛む速度が遅かったり、食べきれなかったりというわけではない。単純に給食をゆっくり味わって食べていた。
食べ物は大抵、噛めば噛むほど味が変わる。甘くなったり、細かくなったりする。奥歯の有効活用である。
「よく噛んで食べましょう」というのは、顎の力を鍛えたり、喉を詰まらせないようにしたりするための標語だったと記憶している。だが、幼い私にそれは食べ物を最大限味わうための標語に思えた。
時間は飛んで、次は中学生。
大人になった今、中学生はまだまだ子供だという印象がある。しかし、卒業後働くこともできることを考えると、将来を考えなければいけない年だとも言える。
私にも、将来を考える機会があった。進路希望調査である。これは小学生のときにもあったが、そのときはテキトーに「宇宙飛行士」だの「サッカー選手」だのと能天気な回答を書いておけばよかった。しかし、中学生の進路希望は私にとってもっと現実的なものに見えた。
Q.将来は何になりたいか。
私は困った。今、自分はなんにでもなれると思った。
頭が悪くはないし、今から医者になろうと本気を出せば、きっとなれるだろう。
スポーツ選手になることもできるだろう。日本代表なんかを望まなければ、本気でそれをやって、最終的に地方のスポーツクラブにでも雇ってもらえたらそれもいい。
宇宙飛行士は難しいかもしれないが、それに人生をかけることを選択することはできるだろう。
その他にも、役者、ペットショップ、理髪店、プログラマー、公務員……きっとなれるだろう。
この時の自分は自意識過剰で自信家であったため、本気でそう考えていた。
しかし同時に、こうも思った。
「もし何か一つ道を選んだら、きっと他のものにはなれない」
そう考えると、道を選ぶのが嫌になった。たくさんの道はどれも魅力的で、どの可能性も手放したくなかった。
結局、何も選ばないまま時間だけが過ぎていき、時間だけが過ぎていく中、いくつもの可能性が自分からなくなっていくのをただただ受け入れて生きていった。
時間が過ぎると言っても、ただ退屈を味わっていたわけではなかった。
中学でノートパソコンを与えられた私は、インターネットの海に飛び込んだ。
目の前にあふれる娯楽。アニメ、漫画、小説、映画……それぞれに詳しい人が名作をあげつらう。私はそれをちらと覗いては、目についたものから消費していった。
娯楽はいい。なぜなら、一つの娯楽を選んでも、すぐに消費して他のものに手を出せる。大量に消費した後に見た作品の名前を振り返ると、どこか達成感もあった。
その達成感を得るために、とにかく量を見る。あの作品を見た。読んだ。味わった気になって、次の日には忘れてを繰り返す。
そうやって退屈を誤魔化し、それからずっと、今も、ただただ娯楽を消費している。
今から1年ほど前、ワールドトリガーのアニメ3期が始まり、Y君は興奮していた。
高校時代の友人が集うグループ通話では、当然のようにワールドトリガーの話題が持ち上がった。
しかし、私は本編のほとんどを忘却していた。
このとき、私は気づいた。私は自分が退屈しないために娯楽を消費している。
自分自身の糧にするためではない。ただ退屈を避ける時間潰しのための行為だった。
味は気にせず、ただ飲み込むだけ。きっと不感症のようになっていた。
それはなんだか、虚しく思えた。
今までずっと味わわずに丸のみにしてきた作品たち。
あれらをもっとちゃんと奥歯で噛んでいたら、自分はもっと感受性豊かな人間になれたのだろうか。
だとしたら、きっとあるはずの味をこれからは逃さないように。
よく嚙んで食べよう。
よく嚙んで食べよう。
ブログを書く
俺はTwitterをやっている。Twitterは感情を吐き出すのにとても便利で、いっときの感情を簡単に消費してしまえる。コンテンツ過多のインターネットにおいて感情を使い捨てるのにこれほど便利なツールはない。
唐突だが、自分以外の人類の皆は自分をどれほど特別視できているだろうか。俺は俺が世界にとって特別な存在だと思えない。
自分には審美眼がない。もちろん全くないとは言わないが、感度が悪いのだ。
自分はアホだ。義務教育の内容も半分近く忘れているだろう。
そんな自分の日常に降って湧いた激情は、きっと誰にも伝える価値のない陳腐なものなのだろう。
だからこれまで俺は、自分の意見、感情、思想を140字に丸めて広大なインターネットの海に捨ててきた。
誰に発信するでもない。海の数多の情報の一部になって、ただ漂っていてくれたらそれでよかった。
今日起きて、たまには自分の呟きでも見返すか、と過去の自分を覗いてみた。
何が書いてあるのか分からない。俺は驚いた。驚いたは言いすぎかも。
自分の過去の感情の欠片なのだから、その時の感情が少しは蘇るのではないかと予想していたが、そこに書かれていたことの意味がほとんどわからなかった。
俺は少し反省した。Twitterは感情のゴミ箱だと思っていたが、心のどこかではTwitterを感情の保管先のように思っていたのかもしれない。
ゴミ箱から捨てたものを掘り出すようにして感情を探すが、どこにも見つからない。
そのツイートをしたときの俺の感情は完全に失われてしまった。自分で感情を捨ててきたのに、それが急になんだか虚しく思えた。
今、俺はブログを書いている。140字以上を書いている。普段よりも細かく、自分の感情、思考を書いている。
もしかすると、いやきっと、文字数が増えただけで変化はないのかもしれない。
それでも。
感情を丸めて捨てていた電子の海に、ボトルメールを流してみたくなった。
ボトルメールなどきっと誰にも届かないが、なるべく「伝わる」ように書いたものを海に投げ入れたら、自己満足には浸れるだろう。
ここに今日の俺のお気持ちを表明しておく。
もしここまで読んでくれた人がいたら、今日の俺を読んでくれてありがとうと言わせてほしい。
電子の海に漂っているボトルメールを、きっとあなたが拾ってくれたのだ。
三日坊主
久しぶりにブックマークバーを漁ってみたら、一つしか記事のないこのブログを見つけた。
おそらくこのブログを始めたころには継続しようという考えがあったはずなのだ。
しかし、前に記事を書いてからすでに半年以上の時間が経過している。
なんでだ?
先に断っておこう。記事なんてものは見ている人に何かを伝えるために書くものだ。しかし今回は(前回がそうでなかったとは言えないが)自分語りのみで、楽しめたとしても未来の自分くらいなものだろう。
閑話休題、多くの人は人生を生きている中で習慣や癖がついて、いつものようにしてしまう行動があるだろう。「ルーティン」がそれに近い気がするが、細かいニュアンスがあっているかわからないのでこの言葉は使わない。ちなみに「ニュアンス」のニュアンスもよくわかっていない。まあ、この言葉は使うんだけど、どうせ「意味合い」みたいな意味だろう。間違ってたら俺が恥をかくだけか。
閑話休題と言っておきながら話がわき道にそれすぎている。まあとにかく要は習慣の話だ。
習慣は生まれた瞬間には存在しない(ほんと?)。日没と日の出によって同じような環境が幾度となく再現される地球上によって、人間の行動もまた繰り返していく。また、人間は考えることができるため、自分により多くの益をもたらすため条件反射を脳に染みつかせる。そのようにして築き上げられる習慣。
急に本題に入るが、私は自分に習慣を覚えさせるのが下手だ。
何かを始めてみても「N時からM時までやる」と決めたところで、長くても十数日でやめる。これが不思議なもんで、やめる時はやめようと思ってやめるんじゃなく、いつのまにか忘れている。そもそも面倒くさがりな性格の持ち主であるため、この飽き癖について考え始めたころはただ面倒でやめたんじゃないかと思っていた。だがもう少し考えてみると、面倒と飽きは全くの別物だ。
面倒というのはそれをする時間、労力、気力などがない状態で、頭の中では行動をとることも考えている。一方飽きというのはまず頭の中に行動すらなく、ただ忘れて、たまに思い出して、やっと飽きていることに気が付く。
頭の中から習慣が消えていく。最近は睡眠時間や起床時間もばらばらで、自分を制御できない。この状況を一度、本能で生きる猿みたいだと例えてみたが、猿は夜寝るし朝に起きる。ほかに例えは思いつかないだろうか。まあいいや。
危機感を覚えた私は、とりあえず何かしら習慣をつけようと思い、スマートホンでできるゲームをいくつか始めてみた。ああいったものは空き時間でやってしまう「時間泥棒」と聞いていたので、習慣づけという目標にマッチすると思った。結果、二週間もったものは無かった。今思えば課金でもすれば後戻りできなくていい塩梅だったのかもしれない。しかし、私にはその気概がなかった。
てかちょっと高額すぎないですかね。どのゲームも一回のガシャに約300円てのはいかがなもんかと思いますよ。時給900円なら一時間働いて3回しか回せませんからね。最高レア3%だと確か20回ほど回してやっと50%ぐらいの確率で一つ以上出る。逆に言えば20回ほど回しても50%の人間はあたりを引けない。21回引くと考えると、時給900円ガシャ一回300円なら7時間。7時間労働してガシャに全部回しても半分でしか最高レアが当たらないなんてもうどうかしてる。もっとお安くしてくれてもいいんだが、運営には運営にはその気概がなかった。
とまあそんなわけで、あまりにもばかばかしくてのめりこめなかった。スマホゲー批判の記事みたいになってるが、まあもう書いちゃったしいいだろう。
全然関係ない話。「時間泥棒」ってのは時間を忘れるほど熱中するようなもののことだったと記憶しているけど、意味のない時間を過ごさせるという意味ではこの記事のほうが時間泥棒っぽい。
あー面倒になってきたな。
見てるか未来の俺。これが今の俺だぞ。
いぇーいピースピース
ええとなんだったかな?
ああそうそう習慣が身につかない。
ここまで長々と書いてきたけど、ぶっちゃけ何が言いたいかというと。
何が言いたかったんだろう……?
では今回はこのへんで
またねしーゆーねくすときじ
初ブログはレモンの香り
友人もすなるブログといふものを私もしてみむとて、するなり。
こんにちは、こんばんは、おはようございます。そして、初めまして。
八月に入り、本格的に夏になったこの頃。皆さんいかがお過ごしでしょう。
私は大学生の身。これから大型連休となるので、前々から興味のあったブログを書いてみることにした。
夏休みの始まりがブログの始まりになると、つまり夏休みが終わればブログも終わり。小学生のときやった、絵日記のようなものか。
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